顧客 | 日本 |
実装 | 日本 |
エンドユーザ | 電力、運送、公共、アパレル |
システム | 設備管理/工事管理/戸籍管理/アパレル商品管理 |
業務 | メインフレーム、COBOLでのシステム開発に従事 |
期間 | 1984/6 – 1986/5 |
担当 | SE、PG |
言語 | COBOL |
インフラ/OS | メインフレーム |
私のIT業界デビューは、新橋の電力会社でした。
出来高契約で入った会社でCOBOLの教科書を渡され、一週間ほど自主勉強した後、ふたつばかり実地の仕事ですがごく小さなプログラムをテスト的に書きました。実際に自分でコーディングしたものが動いているものを見ることは出来ない時代ですので、書いたはいいがそれがどう使われるのか見当がつきませんでした。それでも上司が、まあいいだろうということでひと月ほどして現場に出ることになりました。
新人プログラマにとってまず最初に感動する出来事は、お客様の環境の中で、自分の作ったプログラムが実際に稼働しているところを見た時でしょう。当時の不便な開発プロセスでも、今の便利な世の中でもそれは変わらないと思います。
当時はGUIがありませんから、ダム端末といって黒い背景に緑の字のモニターにキャラクター文字をつかって画面を描画していました。画面の描画部分をひとつ作成するだけで数週間かかったものですが、いまだとコーディングだけですと1〜2時間でおわるような作業です。まずそういった画面まわりを覚え、そのあとユーティリティなどの小さな仕事を受け持ちました。ちょっとした日付の計算や文字列の処理などして返すメソッドですが、これも当時はひとつのまとまった仕事として切りだされてましたので、世の中の景気がよかったんでしょう。
上司は当時30前半の脂の乗り切った年代で話し好きの優しい人で、私を現場で観察しながら様々なアドバイスをしてくれる人でした。そのため特に問題なくひと通りの仕事ができるようになりました。
3ヶ月ほどして慣れてくると、DBのインデックス構築などある程度頭をつかうタスクを割り振られるようになり、そして詳細設計を任されるようになりました。ひとつの思い出としては、単体テストの確認方法です。その現場では、単体テストを通すのをモニターし、コードの分岐をどれだけ通っているかを計測していました。当時は80%とおればOKでした。その時は便利なエクセルも無い時代なので、TD表という言葉も知りませんでしたが紙に表を書いて分岐をとおるデータを考えたものです。
業務領域としては、工事監理、設備管理といったエネルギー系特有のものですが、当時日本で最大のシステムだったということです。その商流のグループで良かったと今でも思うのは「わからないことはいつでもどこでも聞くのが正しい」という文化だったことです。どんないじわるな人でも、仕事上の質問には丁寧に応えてくれました。昨今は、初心者が質問してもそんなことはネットで調べろ!と皮肉っぽく、あるいはあからさまに罵詈雑言を浴びせるのが一般的なようですが、教えることも勉強、あるいは確認になるので違和感を感じます。
さて、わたしは渡航費用を貯めるために無我夢中で仕事にとりくんで一年立ちました。そのころは次のステップとして本格的にSEの領域にはいっていましたが、渡航の予定も迫ってきたのでとにかく効率良く仕事をこなそうと考え始めました。とりあえずシステムにはINとOUTがあること、INのチェックをしてちょっとした計算をして返せばよい、といった大雑把な捉え方をして自分のテンプレートをつくり効率をあげ、常に2〜3のプログラムを並行して担当させてもらうようになりました。さらに渡米前には一日4時間と開発の仕事を区切り、現場では2つの端末を専有して二人前の分量を上げるような生活をしていました。
まあ、単なるPGとしてはそれでいけましたが、会社はもっと上のレベルで貢献して欲しいと思っていたと思いますので、そこは申し訳ないことをしたと思っています。しかし、渡米後自分で業務を請け負うようになって、技術のフィードバックという形でその会社には恩返しさせてもらいました。